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捨てて摑んで、一歩前

 「不義理をしてすみません」と彼女は言ったらしい。友人の父の葬式に行けない事を、そう言って詫びたという。それを聞いて、私の『義理からの卒業』を思い出した。

 私は、保育士だった元職場の冠婚葬祭のつきあいを不義理すると決心し、行動に移した。今から10年前、退職して5年後の事だ。何故5年もかかったのかと思う。
 それは、親のする事を見ていて、義理を欠いてはいけないと思っていたし、仕事をやりきったのではなく、違う生き方をしたくて辞めた事が、心にひっかかっていたからだ。後味の悪い気持ちから、義理を欠くことができなかったのだ。
 しかし、私の選んだ生き方は、その後の人生に充足感と希望を与えてくれた。
 だから、後悔はないと思った時、もうつきあいは止めようと決めた。
 義理からの卒業は、ほんとうに私の心を軽くしてくれた。

 私の住む団地は、五百軒、千五百人がすむ。17年前、引っ越して1ヶ月も経たない時、義母が亡くなった。つきあいの浅い近所の人が手伝いにきてくれ、自治会長が葬儀委員長だった。炊き出しや配り物など、昔からの葬式の形式だった。
 今は住人が亡くなると、『葬式は済ませた事、香典は辞退する』という回覧板が回るだけだ。
 ずいぶん変わったものだ。しかし、義理を欠いて、と憤慨することはない。むしろ、手伝いや参列の必要もないので、助かったと思う程だ。だからといって、その後の近所つきあいに変化はなく、日常生活はいつもどおりだ。
 義理を欠くってどういうことだろう。
 気持ちの問題? 形式の問題? 人間関係の希薄さともつながるのだろうか。
 私は10年前、かっての職場のつきあいを止めた時、嫌な思いをひきずっていた人間関係や、仕事への未練は消えた。
 葬式に出なくても、つきあいを止めた人と出会っても、心がざわつかなくなった。
 そして、今私が進んでいる人生が愛おしく、大切に思えるようになった。
 これが私の『義理からの卒業』から掴んだことだ

-fin-

2016.10

『不義理』をテーマに書いたエッセイです。

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