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里山暮らし

 「どっこいしょ」その声の後に、「ドン」と音がした。しず婆が、畑仕事の道具を三和土に置く音だ。
「アオ、帰ったよ」
 しず婆の声を聞くと、オイラは思い切りしっぽを振って答える。おかえりの合図だ。
 オイラはこの木村家の番犬であり、たった一人の、おっと違った、たった一匹の家族の柴犬だ。
『木村静』というハイカラな名前のしず婆は73歳。何でも源義経の愛妾、静御前からとった名前だといつも自慢している。
 だけど、どう見たって名前とは、似ても似つかないあわてんぼうだ。今朝も出がけに、鍬を忘れて家に戻ってきた。でも、オイラはそんなしず婆が大好きだ。
 畑仕事に行く時は、淋しくて「クウーン」と鳴き、帰ってくると、「ワンワン」と何度も吠え、しず婆の足もとをくるくる廻る。
「アオ、わかったわかった、うれしいのかい」と笑う。しず婆と暮らすようになって、どれくらい経ったのか、犬のオイラには解らない。

 まだ子犬だった頃は源じいがいた。源じいの山仕事によくついていったなあ。
 あの頃、しず婆はいつも大きな声で笑って、源じいに「婆さんはよく笑うなあ」と言われていた。源じいが町の病院で死んだ日、初めてしず婆の涙を見たんだ。それからしず婆はめったに笑わなくなった。

 疲れた顔でいねむりをしているのを見ると、オイラは何だか悲しくなって「クーンクーン」と小さな声で鳴く。オイラにはしず婆の手伝いが何もできない。荷物の端を口で咥えて、引っ張る事ぐらいだ。そんな時は『人間だったら、楽をさせてあげられるのに』と思う。
 それでも「アオありがとよ」とオイラの身体を優しく撫でてくれる。
 だから「アオアオ」と呼ばれる度に、しず婆が好きになるんだ。
 縁側の側に座り前方を見ると、遠くに山々が連なっている。山の中腹の樹は、赤や黄色に色づいている。
 しず婆は背中を丸めて座り「アオ、静かだな」と言った。オイラは、こんな時間が大好きだ。源じいもきっと空から見ている……。
 今年も軒下には、つるし柿がところ狭しとぶら下がっている。
 しず婆は、踏み台に登る時も降りる時も、「どっこいしょ」と言いながら柿を吊るしていた。
 オイラとしず婆、一人と一匹これからもここで暮らしていく。
 つるし柿の食べ頃は、もう少し先だ。

-fin-

2017.12

『「どっこいしょ」で始まる』をテーマに書いたフィクションです。

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