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堪忍してや、姉ちゃん

 ここは、老人福祉施設のお年寄りが集う談話室だ。大きな窓から差し込む日差しが明るい、20畳ほどのスペースだ。
 窓際に座っている88歳の松江さんは、少し足が不自由だが、元気なおばあさんだ。
 日頃からあまり他人と話さず、静かに座っている松江さんは、ふと前にいる人を見た。
 その顔に見覚えがあった。
「貞江さんとちがうの?」声を掛けられたその人は、松江さんを暫く見ていたが「あっ!松さんか?」と言った。「そうや、松江や。何年振りやろ」
「なあ貞江さん、昔うちの井戸ばたで近所の人が来て、洗いもんしたり洗濯してたなあ」
「ほんまや、あんたとこの井戸は、大きかったからよう使わしてもろたわ」
 二人は桶に井戸水をくみ上げて、スイカを冷やした事等を語りあっていた。そういえばと貞江さんは、「あんた、井戸にもたれて泣いた事あったなあ」と言った。貞江の言葉で松江は、もう70年以上も前の事を思い出した。

 昭和13年、松江は4人姉妹の一番下で10歳だった。一番上で15歳上の文姉ちゃんが、亡くなった母親代わりだった。20歳で嫁いだが、子が出来ないと、家に戻されて一年が経っていた。ある日、松江が井戸水を汲んでいると、近所のおばちゃんが小さな声で言った。「あのな松ちゃん、文さんに言うてきて。別れた旦那さんが会いに来たはるんや」
 松江は、文姉ちゃんが旦那さんに会いたいと思っている事や、父ちゃんがそれを叱っていたのを知っていた。だから『あかん、そんな事』と思ったのだ。10歳の松江には、引き離された夫婦の情や、互いに求め合う男と女の気持ちなど、とうてい解るはずもなかった。
 ただ、文姉ちゃんを取られたくない一心で、おばちゃんの伝言を言わなかったのだ。それを姉ちゃんにきつくなじられた。いつも優しくて、冗談を言って笑わせてくれる姉ちゃんが、涙を流して「なんで、言うてくれへんかったん」と言った。
 何故泣いていたのか、松江には解らなかったが、大好きな姉ちゃんを泣かせた事が悲しかった。膝をかかえ、井戸にもたれて泣いた。
 どれくらいそうしていたのか、その後どうなったのか記憶にない。しかし、井戸にもたれた背中が、ひんやり冷たかった事を覚えている。

 遠くを見ていた松江は、近所の人達が井戸端で話している声や、笑い声が聞こえた気がした。今はもう家も、あの井戸も無くなり空き地になっている。
「文姉ちゃん、あの時は悪かったねえ、堪忍してなあ」と呟いた。

-fin-

2015.07.15

『井戸』をテーマに書いたフィクションです。

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