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帰ってこいよ、愛しの髪の毛

 とうとう、その日まで一ヶ月になった。
 俺は60歳、今春定年退職した。還暦記念だと42年振りに高校の同窓会の案内が届いたのは4月の終わりだった。8月8日の重ね重ねの末広がりで、めでたいと幹事のコメントが書いてある。
「何がめでたいもんか」と俺は呟いた。
 当日までこのうら寂しい頭部に、卒業写真の俺のように黒々とした髪の毛を、復活させなければならないのだ。
「どうにかしてくれよ、俺の髪の毛」
 ありとあらゆる育毛剤を試してきた。シャンプーの後、パチパチと赤くなるまでマッサージもした。しかし、だ、うぶ毛らしきものは出たが、かんじんの髪の毛はいっこうに生えてこなかった。
 俺は『後一ヶ月』と思いながら、いつの間にか眠ったらしい。
「勉、勉」と俺をよぶ声がして、振り向くと3年前に死んだおやじがいた。このくそおやじの遺伝子のせいで、俺は髪の毛が薄い。
 おやじが言う事には、仏壇の引き出しにある桐の箱の中に筆が入っている。その筆で、薄くなったおつむを撫でると毛が生えてくると言うのだ。いつもの俺ならこんな話しは信じないが、後一ヶ月になった今、「信じてみよう、そうだ、信じる者こそ救われるだ」とぶつぶつ言いながら引き出しを開けた。
「あったー」と俺は大声で叫んだ。
 立派な桐の箱の割りに、入っていたの、どこの文具店にでもある普通の筆だ。長さ17㎝、太さは2㎝程で、本体もキャップも黒だ。持つ所はすじのように縦にでっぱりがあり、本体の補強になっている。
 本当にこんな筆に不思議な力があるのか、にわかには信じられなかった。だが、藁をも摑む思いの俺は、その日から筆マッサージをした。1回、2回3回……。今まで育毛剤を買いあさり、どれほどのお金を無駄にしたことか。なのに筆マッサージだけで、はたして効果があるのか心配だった。
 それからしばらくたったある日、いつものように手鏡をかざし、つやつやのおつむを見ていた俺は、「生えたー」と絶叫した。
 なんとおつむのてっぺんに毛が生えていたのだ、しかも3本も。俺は滲みだらけの天井を見上げ「おやじありがとう」と拳をつきあげた。こうなれば疑い深い俺の性格も関係ない。毎日マッサージをした。3本が10本、10本が20本……。60歳の男としては、まあまあそれなりの髪の毛になった。
 今日は同窓会、高校時代の彼女に会う。
 久しぶりに会う彼女に、最初にかける言葉はもう決めてある。
「俺、変わってないだろ」

-fin-

2015.05.12

『1本の筆』をテーマに書いたフィクションです。

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